人気のパワースポットに行けばご利益が得られるということで多くの人達がこぞって訪れています。
しかし、本当にそこに行けば誰でも効果があって願いが叶ったりするなんてことがあるのでしょうか?
神社などパワースポットを訪れて何かが変わる、今まで自分になかった何かの力を頂くということは確かにあるかもしれません。
では、どんな場合にどんな人の思いが届くのかを考えてみたい思います。
神話の聖地が、どうしてご利益スポット!?の不思議
ネットやテレビ等では、「日本全国パワースポット人気ランキング」や「関東・関西 お勧め金運/恋愛運を高めるパワースポット」等というような内容の情報を見ることがあります。
また、本や雑誌などでもたびたび特集が組まれるなど、多くの人達の関心が大きいようですね。
以前のテレビ番組で、ある芸人さんがお勧めのパワースポットを紹介していたのですが、それを見て正直たいへん悲しい氣持ちになりました。
TVだから話を大きくして視聴者の関心をそそるということもあるのかもしれませんが、おすすめパワースポットの1つとして紹介されたのが九州・高千穂の「天安河原」でした。
そこが願いが叶うご利益スポットとして、紹介されていたのです。
天安河原は、アマテラスオオミカミと八百万の神々が集まって話し合いをされたといわれる場所です。
それも日本神話にも登場する、大変神聖な、信仰の原点です。
そんな聖地が果たして本当に、世俗的な「願いが叶うご利益スポット」になるのでしょうか。
天安河原に訪れたことのある人ならば、ものすごいたくさんの小石が幾つも積み重ねられている風景を目にしたことでしょう。
そこは既に「ご利益スポット」等と言われる少なくとも前向きな場所とはとても思えず、人々の欲の念が渦巻いているような、非常にオカルト的な恐ろしいものを感じました。
そこでは積み上げられた小石が周辺になくなると、既に他人によって積み上げられている小石の山を崩して自分の為に積み上げなおすと聞きました。
ご利益という軽い意味から、そこからはもはや自分の欲望のために永遠に他人から奪い合う地獄的なイメージしか出てきません。
人によって、感じ方は違うと思います。
その情景を全く何とも思わない人もいらっしゃるでしょうし、足がすくんで近くまで近づけない人もいると思います。
天安河原には何度も訪れていますが、お連れした方のほとんどは、そこから足早に立ち去ってしまう程でした。
日本神話の聖地であるにもかかわらず、マイナスな想念が渦巻くことに大きなギャップを感じる人が多かったのだと思います。
神社参拝=ご利益?
人から神への願い、祈りには、おのが我欲、おのが利益、おのが権力、その他諸々の、自己中心的な願いが含まれてはならぬ。
全て、神はご存知なれば、神は人の純粋なる、無垢なる、無欲なる 願いのみを 受け取らる。聞き入れらる。叶えらる。(『神から人へ』上巻 ひふみともこ記)
この言葉は一体何を表しているのでしょうか。
耳が痛いのと同時に、誰もが「きっとそうなのだろうな。」と直感的に心の中で思わざるを得ないと思います。
ご利益目当てで聖地に来る人は特に注意しなければならないということ。
我欲や権力など自己中心的な願いはいけないということ。
神さまは私たちを全てお見通し。
私たちの祈りが純粋で、無垢で、無欲であった場合のみ、受け取られ、聞き入れられ、叶えられるということが、これらの言葉から言えるのだともいます。
しかしながら、誰でも最初はお願い事を聞いてもらうために神社に参拝するところから始まるのではないでしょうか。
例えば親が神社の神主や氏子だったりして幼い頃から神道のおまつりごとに接する機会が多かったり、あるいは親が神仏に熱心でない限りは、まず始めから神社参拝の作法などが分かる訳がないと思います。
それが、人生において成長するに従い、様々な経験をしていく中で多くを学び、実は、神さまは、人の願い事を聞くためやご利益を与えるために存在しているわけではないということに気付いていくのでしょう。
さて、前出の言葉の通りであるなら、自己中心的な我欲のために神社参拝しても、その願いは神様に聞き入れられることはなさそうです。
そして、もし神社へ行く理由が、「ご利益をもらうため」であれば・・・。
神さまからいつまでたってもご加護をいただけることはないかもしれません。
神さまに願い事が届かないだけではなく、逆に神社・パワースポットなどの聖地を悪い想念で汚すことにもなるので注意が必要なのです。
一方で、真摯な氣持ちで参拝する人が増えると、その場所・聖地そのものが一層力を増していきます。
ですので、いつも真摯な気持で参拝する人たちを増やして聖地を輝かせたい。
そして、聖地をいい想念で満たし、聖地を守りたいと願っています。
神社で罪・穢れを祓い清める
神社やパワースポットでは、自分だけのご利益のためではなく、我欲を捨てて無私の気持ちで祈り、そして願うということを取り上げてきました。
また、神社を訪れる目的にもなるかもしれませんが、「神社で罪・穢れを祓う」ということをよく聞きます。
そして、「罪(つみ)」・・・包む身
「穢れ(けがれ)」・・・氣枯れ、と言い換えることができます。
私たちは毎日の生活の中で、普段からさまざまな「思い」「言葉」「行動」で神さまからいただいた大切な体の「氣」を枯れさせています。
自分の希望通りに行かなかったことに大きく失望したり、妬み、嫉み、中傷、自分の自信を失ったり、心配や不安などで知らない間にどんどん氣を枯らすことをしています。
つまり、包む身を氣枯れさせてしまっているのです。
神社で無私の心で罪・穢れを祓い清め、神さまに感謝してお悦びいただくことで、神さまからお恵みをたまわり、健康で幸せな生活ができるのです。
日本人の祓えは、罪・穢れの奥にひそむ我欲全体を祓い清めようとすることであり、さらには無我となってすべてを神さまにお任せするという非常に厳しいものです。
こうした生き方ができる人が、自分の役割を理解し、生き生きと生きていける人であると、春日大社の葉室前宮司さんがおっしゃっています。
といっても、そう簡単にここまですぐにはできるものではありません。
皆さんと一緒にこれからも学んでいきたいと思います。
おすすめのパワースポットツアー
謙虚に心を空しくして、目に見えない崇高な存在に対して畏敬の念をもち神社に参拝する人達と共に神社やパワースポットを訪れましょう。きっと多くの学びや気付きがあると思います。