貧困で孤独な青年が神に願った。
「金、地位、そして家族をください」と。
神は全部叶わせた。青年は感激したが、時間が経つとまた神に願った。
「幸せをください」と。
神は万能。「よろしい」と答えた。
青年から全てを取り上げ、元の貧困で孤独な青年に戻した。
青年は号泣し、運命と神を恨んだ。
数年後、神は青年に家族だけを返した。
青年は家族を抱きしめてまた号泣した。
「俺は幸せだ」と。
・・・・・・やっぱり神は万能。
(宋文州さんのtwitterより引用)
以上は、宋文州さん(ソフトブレーン創業者)のツイッターに書かれていた内容を引用して紹介させて頂きました。
皆さんはこれを読んで、一体、何を思うでしょうか。
失って気付く本当の幸せ
引用した寓話では、貧困な青年は幸せになるために、神様にお金と地位と家族を求めます。
そして、全てを与えられるのですが、今度は幸せを神様に求めます。
神様は青年から一旦全てを取り上げて、数年後に家族だけ返したところで、青年は家族こそが幸せの原点だったことに気付くのです。
本当に大切なものは失った時になって初めて分かるのでしょう。
もし、神様から返されるのが家族ではなくてお金や地位だったとしたら、青年はおそらく幸せを感じることはなかったかもしれません。
「家族」を人と人との心のつながりと言い換えても良いかもしれません。
また、親しい知人友人、価値観を同じくする仲間の存在も掛け替えのないものです。
この寓話から言えることは、本当の幸せとはお金や社会的な地位というものでなく、人と人との心との繋がりであるということなのだと思います。
神さまがこの青年に「本当の幸せ」に氣付かせるために行ったことは、一旦与えたお金・地位・家族というものを全て取り上げることでした。
これこそが「大きな神さまの愛」だったのだと思います。
人生において、今与えられている当たり前のことが、実は幸せそのものなのかもしれません。ただそれに気付かないだけで、人は始めから幸せなのだと言えないものでしょうか。
自分だけが不幸だなどと思う人は他人との比較からでしか幸せを感じられず、どれだけ自分が既に与えられているかを認めることができないでいるのです。
幸福・不幸になる人の違いとは
既に今、ここに生きていること自体が奇跡なのです。
そこから幸せになるか不幸になるかは、その人の考え方、人生の捉え方次第です。
それは「心の姿勢」によるのではないでしょうか。
ほんの少しの愛も感じられない人が、大きな愛を感じることはできません。
いつまでも不平不満を言ったり、人を妬んだり羨んだりする人には、どんな小さな幸せですら感じることはできないでしょう。
もし自分や自分の大切な人の寿命が残り1年と知ったら・・・。
普段の不平不満も妬みそねみも、もうどうでもよくなるのではないでしょうか。
私たちは今の自分の幸せに氣付き、幸せをかぞえることが大切なのです。
家族があること、家があること、眠るための布団があること、友人がいること、仕事があること・・・。そして、今、生きていること。
今、当たり前だと思っていること全てです。数え切れない程たくさんあります。
幸せな人とは、幸せの数を数えられる人。
不幸な人とは、自分の不幸の数しか数えられない人。
いつも心の姿勢を積極的にして、幸せをかぞえる人になりたいと思います。