まずは、沖縄・久高島で確信した本当の祈りとは【前編】をご覧下さい。
聖地では心の眼で見ることが大切
2014年に開催した「沖縄あがりうまーい久高島ツアー」はとても思い出深いツアーとなりました。
琉球王朝が重要としていた東御廻り(あがりうまーい)の信仰の聖地をめぐる旅。
ツアーでは3人の地元の方にお話をお願いしました。
お2人はガイド協会の会長さん2名。そして久高島では神人(かみんちゅ)さん。
沖縄にはガイド協会がいくつもあって、2つの異なるガイド協会を代表する会長さん2名を特別にお願いしたことで、とても深く深く、沖縄の信仰について学ぶことができました。
参加された方からは、「内容を録音したかった」とおっしゃったほど。
ガイドさんの中には、単なる観光地の説明だけをする人が多いですね。
でも、2名のガイドさんは違いました。
何が違うと思いますか?
お2人とも「目には見えないものを敬う心」を持った方たちでした。
そういった方の説明は、心に響くものです。
沖縄の有名な観光地(と言いたくありませんが)となっている斎場御嶽(せーふぁうたき)。
斎場御嶽は、琉球一の「祈りの聖地」です。
ここには毎日、多くの観光客・修学旅行生がやってきます。
斎場御嶽に行った日は平日だったので比較的人は少なかったのですが、修学旅行生が来ると雰囲気が一変。
バカみたいな格好をして写真を撮る。大騒ぎをする。
ここがどんな場所だったのかを、先生もバスガイドも説明をしていないのでしょう。
三庫理(さんぐーい)という、斎場御嶽の中でも大変なスピリチュアルスポットでも大騒ぎする修学旅行生。
ガイドのSさんに、「これは黙っていられないです!」と私が言うと、Sさんが静かにバスガイドさんに向かって言いました。
「あなた、ちゃんと学生さんたちに説明しなくてはいけませんよ」
そして学生さんたちに向かって、「みなさん、ここは霊地なんです。静かにしましょう」
私もたまらず、「ちゃんと皆さんに説明しましょうよ。彼らだって言えばわかるんですよ」とバスガイドさんに言いました。
私たちとバスガイドのこうしたやりとりを、大騒ぎしていた修学旅行生たちが黙って見ていました。
その様子を黙って見ながら、「霊地」という言葉を学生の1人が言っていました。
斎場御嶽は、本当に来年ぐらいから、男性入場不可になる可能性があります。
この斎場御嶽の歴史を見ると、ここに入れたのは女性のみ。
どうしても中に入らなくてはいけない男性は女装して入ったそうです。
地元の観光業に関わる人たちが伝統文化や信仰を正しく理解していないことは残念です。これは沖縄だけの問題ではありません。
大変失礼ではありますが、地方のバスガイドさんを当社が頼まないのはレベルが低いことが多いからです。
勉強していないレベルの低さではなく、自分の住む地域に誇りを持ちながら、伝統や文化を伝えようというバスガイドを私はほとんど見たことがありません。
ガイドのSさん曰く、タクシーの運転手、バスガイドなど伝統文化を正しく伝えることの重要性を話しているのだけど、スルーされるそうです。
当社は貸切バスのドライバーさんにとても恵まれているのですが、ドライバーさんのほとんどが、地元文化を理解し、きちんと説明できる人が多いです。
ドライバーさんも、お客である私たち乗客を見て判断していると思うことがあります。
ツアーに何度も参加している方はご存知だと思いますが、バスの中で私がしている説明を、ドライバーさんはとてもよく聞いているのです。
話は戻りますが、斎場御嶽の三庫理は、行ったことにある方はご存知だと思いますが、とても神秘的な場所です。
斎場御嶽のガイドさんがおっしゃっていましたが、カメラのシャッターが降りないことも多々あるそうです。
ここには、目には見えない存在の祈りの人たちがまだ斎場御嶽という聖地を見守っているのだと実感しました。
感覚の鋭い人であれば、三庫理で大騒ぎをしたり、ピースして写真を撮る場所ではないと直感的にわかるはずです。
そういった聖地なのだから、心を静謐にしよう。
心の眼で聖地を見よう、体験しよう。
それがわかります。
こうしたやりとりを見ていたツアー参加者の方から、「(バスガイドや学生に)言ってくれてホッとした~」といわれました。
「ここは祈りの聖地だから、静かにしようね」
修学旅行生の皆さんに、そうお伝えすればいいだけ。彼らだって言えばわかるはずなのです。
久高島では「祈り手は守り手」
「祈り手は守り手」
これをお話しされたのは、久高島の神人(かみんちゅ)さんでした。
ツアーでは、約1時間お話をしていただきましたが、久高島の五穀伝説の子孫の方でもあります。
祈り手は守り手。とてもいい言葉だなと思っています。
久高島では、女性が男性を守ります。
この島で生まれた女性は「神人(かみんちゅ)」になることが決まっており、男性は「海人(うみんちゅ)」になります。
久高島では日々が祈り。ほぼ毎日にちかいぐらい、お祭がありました。
火の神様、水の神様・・・。日々の生活に必要な、私たちが生きていくうえで大切な身近な神様への感謝です。
久高島では、祈りとは何か?を考える機会になりました。
祈りとは、本来他の誰かの幸せを祈るものであって自分の幸せの祈り?とはあまり考えられない。
もちろん、自分が幸せになることは大前提だと思いますが、祈りとは、自分以外の誰か他の人の幸せを願うことが「祈り」だと私は思っています。感謝の気持ちを伝えることも。
他の誰かが幸せになりますようにと想う祈りは、結果的にはその人を守ることになります。
だから、祈り手は守り手と言えるのでしょう。
久高島ではそれが、久高島で生まれた女性の大きな役割だったんですね。
久高島だけではなく、私たち誰もが「祈り手」になることが今の時代、とても大切だと思っています。
以前、スピリチュアリストの江原啓之さんが、「日本人の祈りが少ない。祈りが圧倒的に少ない」とお話されたことがあります。
他国では、食事の際に神様に感謝を「アーメン」と言って捧げるところがあります。
しかし日本では、学校の給食の際に「いただきます」という言葉を「お金を払っているのだから言う必要がない」と学校に苦情を言う親まで出てきました。
このような人たちは自分がかわいい「小我」な思いがいっぱいの人たち。
その反対の「大我」な愛とは、人の幸せを祈ったり感謝を伝えること。
自分よりも相手や他の人の幸せが優先。感謝が優先。
自分以外の人たちの幸せを祈ることで、それがめぐりめぐって自分にも幸せがやってくる。
そんな祈りや感謝が出来る人を、神様は放っておかないはずです。
「祈り手は守り手」という言葉は、私の祈りが「小我なのか大我なのか、本当の祈りなのか」を振り返る時間となりました。
自然と向き合う。祈りと向き合う。
それはつまり、「神とひとつになる」という行為。
この年の沖縄・久高島ツアーは沖縄の聖地の素晴らしさを改めて知ったツアーとなりました。