努力と勤勉の人、二宮尊徳(通称・金次郎)
二宮尊徳といえば、小学校にある薪を背負いながら本を読んでいる銅像で有名です。皆さんの学校でもありませんでしたか?二宮尊徳は、農政家であり、思想家。名前は知っていても、実際にはどんなことをしていたのかわからない人も多いと思います。
二宮尊徳は万物の根源を「神」として敬っておられ、そしてその父母として、イザナギノミコト、イザナミノミコトを敬っていらっしゃったそうです。
とても苦労の多い人生です。幼少の頃には暴風で家の田畑が押し流され、14歳で過労のため父親が亡くなり、その2年後に母も他界。その後伯父の家に引き取られ、農業に励み荒地を復興させました。
収入の増加を図ったことで20歳で生家の再興に成功します。地主経営をしながら小田原で武家奉公人をし、小田原藩で財政建て直しを頼まれ、見事な成功が続きました。
今も多くの会社経営者から尊敬されています。内村鑑三の書籍の中で欧米諸国に対し、「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として紹介されています。
「報徳二宮神社」という二宮尊徳が祀られた神社が小田原にあります。興味のある方は、参拝に訪れてみてはいかがでしょうか。
二宮尊徳の言葉から学ぶこと
二宮尊徳は日本人が生きていくための基本的な精神を報徳訓として残しました。現代においても多くの人の心の中に響くものを感じます。
「この秋は雨か嵐か知らねども、今日の努めの田草取るなり」 二宮尊徳
これは、現在やるべきことをキチンとする、後は全て神様にお任せするという生き方を表しているのではないでしょうか。今、田の草を取っても秋になって嵐が来たら稲がダメになるのではないか・・・。ダメになるなら何をやっても意味がないと考えるのではなく、結果はどうであれ自分にできる精一杯の努力を継続する生き方。
一生懸命作った稲が台風で駄目になってしまうことはとても辛い。でも、また来年もそれを乗り越えて作ろうと努力する。そうすることによって自分が進化していくということ。二宮尊徳は世のため人のために生き、困難も乗り越えて進化し、神社に祀られるまでになったのでしょう。
また、二宮尊徳の言葉からは、「取り越し苦労」と「持ち越し苦労」をすることなく日々の取り組みを継続するべきであることを教えられます。いつまでもくよくよ悩んでいたり、未来のことを心配するのではなく、悩んでいる時間があるなら、今やるべきことをやる。そしてお導きをいただくことが大切です。
神社で感謝は伝えていても、毎日の生活の中で取り越し苦労と持ち越し苦労が多い方は、心配やくよくよ悩みそうになったら、一生懸命努力したら後の結果は天にお任せする、そんな気持ちに切り替えることが、大切だと思います。
人生には様々なことが起こり、幸せよりも苦しみ、悲しみの方が多いと思います。それでも、その苦しみを苦しみと思うのか。それとも幸せにつながる神さまのお導きと思うのか。その捉え方によって人生が全く変わってきます。
人生の苦しみ・悲しみに翻弄され浮き沈みを繰り返すのではなく、二宮尊徳の精神の様に、何が起ころうと、どんな結果が訪れようと、不動心を持ち、今やるべきことを坦々と精一杯続けていくことしか我々の唯一できることはないのだと言えるのではないでしょうか。
【二宮尊徳の報徳訓と道歌(抜粋)】
◎「来年の衣食は今年の艱難にあり」
昨年の努力と丹精によって今日という現在がある。だから今日という日々は未来のためにいっそう努力しなければなりません。日々努力し継続することは大変なことであります。しかし、その辛さに打ち勝ってこそ期待すべき未来があるということ。
◎「故道に積もる木の葉をかきわけて 天照神の足跡をみん 」
少年時に無一文になった尊徳が、23歳には当時の一村平均以上の田地を所有し復興しました。その方法とは、古より日本人が行ってきた勤労によって積み立てた天と地の徳にほかならない。古にもどれということではなく、古を知り新たな文化を創造していくことが復興につながる手段である。と、説いた句。
◎「衣食住の三は田畑山林にあり」
田畑山林があれば必ず衣食住には困らないということではなく、田畑山林という自然と神の恩恵あってこそであるということ。また、自然破壊は天災につながることの証明でもあります。
二宮尊徳の言葉は現代人の心に響きます。自分自身の今までの人生や日々の生活を振り返り、言葉の重みを実感してみましょう。
(出展)報徳二宮神社ホームページ
多くの人達が神社やパワースポットを数多く巡る中で、目に見えない力の存在を実感する人も多いのだと思います。人によっては、それが神社境内の御神気だったり、御神木からあふれ出るエネルギーだったりして、その場で非日常を体験することで人は目に見えるものが全てではないと直感的に感じ取るのでしょう。
現代の聖地巡礼を続ける人達には、宗教的な信仰心とはいかないまでも、畏敬の念をもって神様という超越した存在を崇敬する気持ちが湧き出てくることもあるかも知れません。しかし、日常生活において自分自身のやるべきことをやって後は神様にお任せするしかできることはないと分かっていても、将来の不安に駆られたり願いを聞いてくれない神様に疑念が沸いたりするのが弱き人間です。
不動心を持って日々坦々と精一杯の努力を継続する、そんな生き方を体現できていた二宮尊徳の生き方に現代人は学ぶところは多いと思います。