鹿島神宮で人の運・不運について考える
世の中には、運の強い人(強運の持ち主)だとされる人がいる一方で、全く運というものから縁遠い人もいます。
周りを見回してみると、何をやってもうまくいく人、やればやる程に運気は上昇するばかりという人や、何をやってもうまくいかない人、幸運の女神にもう見放されているとしか考えられないような人を目にすることがあるかもしれません。
その違いは一体何処から来るのでしょうか。一概には言えないとしても、根本的に違う何かがそこにはあるはずです。
ツアーの際に、鹿島神宮や香取神宮を参拝しながら、人の運・不運というものについて考えていました。
毎年の様に、鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の東国三社を巡るツアーを行っています。
2月の寒い時期に開催することが多く、ツアーでは鹿島神宮の早朝参拝・清掃作業を行うので、寒く暗い時間帯に宿泊ホテルを出掛けるのが結構辛かったりします。
しかし、暗く寒い中で竹ぼうきを手に無言で鹿島神宮の参道を掃き清め続けることで、完全に無の状態に入って、日頃思い悩んでいることや気にかけていること等に対して思いも寄らない気付きが得られることがあります。
鹿島神宮のご祭神タケミカヅチノミコトは、悪運と悪縁を神剣で断ち切ってくださる厄除けの神であり、決断力・忍耐力・行動力を授けてくださる神さまです。
様々な問題に直面している人は、早朝参拝・清掃でないとしても、正しい判断ができるように真摯に祈れば神様はきっと背中を押して下さるはずです。
また、人によってはスピリチュアルな観点から運気を上げるためにパワーストーンを身に着けたり、金運を得るために風水などの考え方を利用することもあるでしょう。あるいはカード占いなどの結果を参考にして行動する人もいることと思います。
しかし、真の意味で幸運を味方に付けるには、物やツール類を利用した影響力も確かにあるのでしょうが、それ以上にその人の考え方や生きる姿勢、心構えこそが大きく「人の幸運」というものには影響する様に思えてなりません。
導きを最大限に活かすことが幸運への近道
人生における様々な問題を強く乗り越えていくためには、まずは私たちの目には見えない罪・穢れを祓っていただくこと。その上で、力強く生きていくための運、つまり神様のお導きをいただくことが大切だと思います。
運の強い・弱いは生まれつきのものではなく、その後の人生の努力によるものだとは言えないでしょうか。
人生の厳しい分かれ道にきたとき、右に行くか、左に行くかを決めなければいけないときがあります。例えば仕事での決断、結婚相手、さまざまです。
その時、正しい方向に進むべき導きというものがわかるか、わからないかによって運・不運が決まるように思います。
誰がお導きをしているかというと、スピリチュアルな視点では神様や私たちの守護霊と言われています。正しい方向に行けない人は、神々や守護霊のお導きがわからずに、我欲で選ぶから間違ってしまうのかもしれません。
普段から我欲ではなく、我欲を祓って無我になってお導きを祈ることをしていれば、おのずとお導きがあると思われます。
誰にも経験があると思いますが、絶妙なときに計ったように誰かからアドバイスがあったり、だまされずに済んだなんてこともあるのではないでしょうか。
また、せっかくお導きがあっても問題を解決するために行動に移すことが出来ない人もいます。そのために、どんなに辛い状況であっても全てを受け入れ、自分の幸運を切り開く勇気と行動力が必要です。
お導きの結果、自分の思った通りではなくても、それがお導きであると素直に受け入れて従うことも、運のいい人になります。
お導きと分かっていても、自分都合の理屈でああでもない、こうでもないとやると、結局間違った道に進んでしまうことになりかねません。
結局、導かれていく自分の役割が受け入れられなくてジタバタする人はその人の我欲が浮かび上がってきます。
無我になってお導きをお願いすること。そうすれば正しい判断や決断ができます。そしてその結果を素直に受け入れること。それが、運の強い人なのだと思います。
導かれた自分の役割を全うすることで次のステージへ進めるのです。自分の役割を放棄して我欲に固執すると運が開けず、自分の今の役割の完遂の先に次なる幾つもの幸運や開運の道標が見えてくるのではないでしょうか。そして、その連続を強運と表現してもよいかもしれません。
結局、運に恵まれる人というのは、自分が今関わっている世界の中での自分の役割をしっかり認識して、それを受け入れ周りの期待に精一杯応えている人と言えます。そこに我欲はありません。正に導かれる様にスルスルとあらゆる物事が進んでいきます。
他人が自分を評価します。そして、多くの他人に高く評価されると、更なる高みから導きの手が舞い降りてきます。その導きに従うことで、また運が拡大していきます。
しかし、自分に期待されることを受け入れずに現状の不平不満だけを並べ立てる人はどんな導きであってもそれに気付くことができず、幸運をつかみ損なってしまうのです。
2月の寒い時期に訪れた鹿島神宮や香取神宮は、まさに決断や意を決するに相応しい聖地でした。この場所で真摯な姿勢で自らの行くべき道を問いかけ、どんな導きにでも従うという心構えを持ったのならば、きっと人生において道が開けてくることでしょう。
そんな気付きを得られた鹿島神宮参拝、そして東国三社参りでした。